【福島・会津若松市】 鶴ヶ城 [東北]
【2013年4月27日】
大内宿を後にし、一路会津若松市の鶴ヶ城へ~
今回の旅行はプラン作りが2週間前だったため、いつもの部数世界一でギネスブックにも載ったと、ご自身で自慢されている「るるぶ」が頼りなのです!
因みにですが家にある「るるぶ」と「まっぷる」は40冊近く。九州と四国を除けば、ほぼ全国をカバーしておりやす。
旅行ガイドや歴史書、神話に神社仏閣、それと地図ばかりに囲まれた生活、、、かなり好んでます(笑)旅情報誌から有名観光地をチェックし、コラムっぽい小さな紹介記事でヒントを得たり、ネットで突っ込んだ調べものをして立ち寄る場所を決めています。
直感で「ここだ!」と選んでも、アタリとハズレが多分にして含まれていて、旅情報誌ですからプロカメラマンによる写真が掲載されるのですが、50%は「ココがココ?」と、ついつい思ってしまうんですよね。
それとですね。
案外、アタリを引く確率が高いのは、観光バスが駐車できない観光地を選ぶとアタリ率は75%に上がるのが不思議なんですよ。それと観光地に行って無料の地域紹介パンフレットを頂戴し、その中から選んだりするのもアタリ率を上げることもあるんですよ。
しかし、最後は直感で行ってみる。。。これが重要です。
湯野上温泉駅(Yunokami-Onsen Station)より国118号を北上し、会津若松市(Aizuwakamatu City)の鶴ヶ城に向かいます。
9:20 会津 鶴ヶ城(あいづ つるがじょう:Turugajyo:Aizu Turugajyo Castle)
今回の南東北紀行よりローマ字と英語を混ぜて記載してまいります。 その訳は、ベトナムのお友達さんにもこちらのブログを紹介したものですからね。 でも私は英語が苦手で、間違って書いてあったら先に謝っておきまする。
雨が降りしきる中、鶴ヶ城周辺の三の丸駐車場に駐車させ、城内へと歩み入れると堀端は桜が咲いていました。あと数日で散ってしまう手前で、最後の見頃に訪れたみたいです。
二の丸から本丸へ渡る「廊下橋(Rouka-basi Bridge)」
朱色の欄干で木製の橋が掛けられ、この橋を渡れば本丸へと入ります。
鶴ヶ城は1500年代に会津蘆名(Aizu-Asina)氏によって城下町として形成され、当時は黒川城と呼ばれていたそうですが、それ以前については判明していないとのことです。
戦国時代となって伊達政宗(Date Masamune)によって蘆名氏の手から離れたが、豊臣家の命を受け蒲生氏郷(Gamo Ujisato)が治め、黒川という町名を「若松(Wakamatu)」と変え、蒲生氏の家紋であった「舞鶴(Maizuru)」から城の名を「鶴ヶ城」としたそうです。
その後は上杉景勝が入り、関ヶ原の戦いで西軍に組したことから徳川家康(Tokugawa Ieyasu)により、山形県の米沢へ移封され、蒲生氏が再び治めるが加藤氏に変わり、最後は徳川家3代将軍家光の異母兄弟である保科正之(Hosina Masayuki)によって陸奥会津藩(途中から松平姓になりました)として幕末まで続いたそうな。
尚、今の城郭はほぼ加藤氏によって作られたそうですから、石垣等は1600年代のものと、昭和に入って再建された天守閣と共に改修されたんだそうですわ。
桜並木を見ながら歩みを進めると、天守閣が観えてきます。
現在の天守閣は1965年(昭和40年)に復元天守として再興された5層のコンクリート造。当初は黒い瓦でしたが2011年(平成23年)に赤い瓦へ葺き替えられ、明治7年に取り壊された時と同じ赤瓦になったそうですわ。
天守閣・茶室麟閣・御薬園の共通券700円を支払って中へと入ります。
天守閣はコンクリート造なので全く興味はありませんが、入口を入ってすぐに現れるのが以前の石垣。
こちらにはやたらと興味が!
400年前、蒲生氏の時代の石垣なんだとか。。。
5層天守からは会津若松市が一望で、飯盛山も眺められます。
晴れていたならば、良い展望を望めんですけどね、、、悲しい。
瓦が新しいせいかちょびっと綺麗な天守閣です。
本丸内には「茶室麟閣(Tyasitu Rinkaku)」が、戊辰戦争後に城下へ移されて保存されてきましたが、1990年(平成2年)に本丸内へと移築され、一般公開されておりまする。
麟閣は千利休(Senno Rkyu)の子(養子)、少庵(Syoan)によって建てられたと伝えられていますが定かではないのだとか、、、うーむ。。。この「定かではない」という表現って多いですよね。
観光地を訪れて○○○○が作ったとか案内板に記されていますが、中には「本当?」と言いたくなるようなモノや、「へー」と言ってしまうモノまで。
私は仮に嘘であっても、そのように伝えられているんだ・・・と、認識すれば良いのではないかなと考えます。
前回は幼少期?に訪れた会津鶴ヶ城、身体が大きくなったからなのかわかりませんが、記憶の中の鶴ヶ城と比べ小さく感じたのですが、お城が縮んだってことはありませんよね?
老夫婦とも話したのですが、こんなだったっけ?てな会話をし、やたらと恥ずかしい思い出話を聞かされましたが、それは秘密にしておきましょう(笑)
1898年に土井晩翠(Doi Bansui)が作詞した「荒城の月(kojyo No Tuki)」のモデルとなった鶴ヶ城。
土井晩翠が高校の修学旅行で訪れ、その印象を歌詞にしたのでしょう。
春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして 千代の松が枝 わけいでし むかしの光 いまいずこ
作曲は瀧廉太郎(Taki Rentaro)で、こちらのモデルは大分県竹田市の岡城とのこと。
どちらが正解か?
それはどちらも正解みたいですね。
土井は鶴ヶ城をモデルに詩を書き、瀧は岡城をモデルにして曲を作ったのですから。
近代の明治時代に至るまで戦ったという歴史だけが印象的な鶴ヶ城、160年前まで日本人どうしで戦っていたのですね。
新しい時代を作った先人達や、その犠牲にあった方達がおられたからこそ、今の日本があるのですよね。
感謝と祈りをこめて頭を垂れて鶴ヶ城をあとにいたしました。
[情報:鶴ヶ城]
福島県会津若松市追手町
JR磐越西線・会津鉄道 会津若松駅よりバス15分
会津バス まちなか周遊バス200円
駐車場:周囲に300台以上 1時間200円
入場料:500円(茶室麟閣含む)、共通入場券700円(鶴ヶ城、麟閣、御薬園)
見学所要:1時間程度
追伸:明日(5月4日)は西へ日帰りですが旅にでます。
大内宿を後にし、一路会津若松市の鶴ヶ城へ~
今回の旅行はプラン作りが2週間前だったため、いつもの部数世界一でギネスブックにも載ったと、ご自身で自慢されている「るるぶ」が頼りなのです!
因みにですが家にある「るるぶ」と「まっぷる」は40冊近く。九州と四国を除けば、ほぼ全国をカバーしておりやす。
旅行ガイドや歴史書、神話に神社仏閣、それと地図ばかりに囲まれた生活、、、かなり好んでます(笑)旅情報誌から有名観光地をチェックし、コラムっぽい小さな紹介記事でヒントを得たり、ネットで突っ込んだ調べものをして立ち寄る場所を決めています。
直感で「ここだ!」と選んでも、アタリとハズレが多分にして含まれていて、旅情報誌ですからプロカメラマンによる写真が掲載されるのですが、50%は「ココがココ?」と、ついつい思ってしまうんですよね。
それとですね。
案外、アタリを引く確率が高いのは、観光バスが駐車できない観光地を選ぶとアタリ率は75%に上がるのが不思議なんですよ。それと観光地に行って無料の地域紹介パンフレットを頂戴し、その中から選んだりするのもアタリ率を上げることもあるんですよ。
しかし、最後は直感で行ってみる。。。これが重要です。
湯野上温泉駅(Yunokami-Onsen Station)より国118号を北上し、会津若松市(Aizuwakamatu City)の鶴ヶ城に向かいます。
9:20 会津 鶴ヶ城(あいづ つるがじょう:Turugajyo:Aizu Turugajyo Castle)
今回の南東北紀行よりローマ字と英語を混ぜて記載してまいります。 その訳は、ベトナムのお友達さんにもこちらのブログを紹介したものですからね。 でも私は英語が苦手で、間違って書いてあったら先に謝っておきまする。
雨が降りしきる中、鶴ヶ城周辺の三の丸駐車場に駐車させ、城内へと歩み入れると堀端は桜が咲いていました。あと数日で散ってしまう手前で、最後の見頃に訪れたみたいです。
二の丸から本丸へ渡る「廊下橋(Rouka-basi Bridge)」
朱色の欄干で木製の橋が掛けられ、この橋を渡れば本丸へと入ります。
鶴ヶ城は1500年代に会津蘆名(Aizu-Asina)氏によって城下町として形成され、当時は黒川城と呼ばれていたそうですが、それ以前については判明していないとのことです。
戦国時代となって伊達政宗(Date Masamune)によって蘆名氏の手から離れたが、豊臣家の命を受け蒲生氏郷(Gamo Ujisato)が治め、黒川という町名を「若松(Wakamatu)」と変え、蒲生氏の家紋であった「舞鶴(Maizuru)」から城の名を「鶴ヶ城」としたそうです。
その後は上杉景勝が入り、関ヶ原の戦いで西軍に組したことから徳川家康(Tokugawa Ieyasu)により、山形県の米沢へ移封され、蒲生氏が再び治めるが加藤氏に変わり、最後は徳川家3代将軍家光の異母兄弟である保科正之(Hosina Masayuki)によって陸奥会津藩(途中から松平姓になりました)として幕末まで続いたそうな。
尚、今の城郭はほぼ加藤氏によって作られたそうですから、石垣等は1600年代のものと、昭和に入って再建された天守閣と共に改修されたんだそうですわ。
桜並木を見ながら歩みを進めると、天守閣が観えてきます。
現在の天守閣は1965年(昭和40年)に復元天守として再興された5層のコンクリート造。当初は黒い瓦でしたが2011年(平成23年)に赤い瓦へ葺き替えられ、明治7年に取り壊された時と同じ赤瓦になったそうですわ。
天守閣・茶室麟閣・御薬園の共通券700円を支払って中へと入ります。
天守閣はコンクリート造なので全く興味はありませんが、入口を入ってすぐに現れるのが以前の石垣。
こちらにはやたらと興味が!
400年前、蒲生氏の時代の石垣なんだとか。。。
5層天守からは会津若松市が一望で、飯盛山も眺められます。
晴れていたならば、良い展望を望めんですけどね、、、悲しい。
瓦が新しいせいかちょびっと綺麗な天守閣です。
本丸内には「茶室麟閣(Tyasitu Rinkaku)」が、戊辰戦争後に城下へ移されて保存されてきましたが、1990年(平成2年)に本丸内へと移築され、一般公開されておりまする。
麟閣は千利休(Senno Rkyu)の子(養子)、少庵(Syoan)によって建てられたと伝えられていますが定かではないのだとか、、、うーむ。。。この「定かではない」という表現って多いですよね。
観光地を訪れて○○○○が作ったとか案内板に記されていますが、中には「本当?」と言いたくなるようなモノや、「へー」と言ってしまうモノまで。
私は仮に嘘であっても、そのように伝えられているんだ・・・と、認識すれば良いのではないかなと考えます。
前回は幼少期?に訪れた会津鶴ヶ城、身体が大きくなったからなのかわかりませんが、記憶の中の鶴ヶ城と比べ小さく感じたのですが、お城が縮んだってことはありませんよね?
老夫婦とも話したのですが、こんなだったっけ?てな会話をし、やたらと恥ずかしい思い出話を聞かされましたが、それは秘密にしておきましょう(笑)
1898年に土井晩翠(Doi Bansui)が作詞した「荒城の月(kojyo No Tuki)」のモデルとなった鶴ヶ城。
土井晩翠が高校の修学旅行で訪れ、その印象を歌詞にしたのでしょう。
春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして 千代の松が枝 わけいでし むかしの光 いまいずこ
作曲は瀧廉太郎(Taki Rentaro)で、こちらのモデルは大分県竹田市の岡城とのこと。
どちらが正解か?
それはどちらも正解みたいですね。
土井は鶴ヶ城をモデルに詩を書き、瀧は岡城をモデルにして曲を作ったのですから。
近代の明治時代に至るまで戦ったという歴史だけが印象的な鶴ヶ城、160年前まで日本人どうしで戦っていたのですね。
新しい時代を作った先人達や、その犠牲にあった方達がおられたからこそ、今の日本があるのですよね。
感謝と祈りをこめて頭を垂れて鶴ヶ城をあとにいたしました。
[情報:鶴ヶ城]
福島県会津若松市追手町
JR磐越西線・会津鉄道 会津若松駅よりバス15分
会津バス まちなか周遊バス200円
駐車場:周囲に300台以上 1時間200円
入場料:500円(茶室麟閣含む)、共通入場券700円(鶴ヶ城、麟閣、御薬園)
見学所要:1時間程度
追伸:明日(5月4日)は西へ日帰りですが旅にでます。
こんばんは〜
ご訪問いただきありがとうございます
これからもよろしくお願いします
(^^)/
by はくちゃん (2013-05-04 20:46)
今晩は。
こちらにも飯盛山というのがあります。
中世の山城(砦)がありました。
by 夏炉冬扇 (2013-05-04 22:03)
こんばんは。
かなり昔、晩秋に鶴ヶ城に訪れたことを思い出しました。
桜の時期は華やかでいいですね。
市内で駄菓子屋さんをよく見かけた覚えが・・もちろんウロなっていますが(笑)
by kuwachan (2013-05-05 00:03)
定かでないっていう書き方 確かによく見かけますね
わけんさんの書いてらっしゃるように
そういう風に伝わっていると解釈しております
だってその時代に 一言一句 書き残すことはなかっただろうし
100歩譲って 日記をしたためていたとしても
それが公式認定されてるわけじゃない
だからいろいろ想像(いや妄想か?!)して
歴史が面白いってもんですよねヽ(^。^)ノ
by amane (2013-05-05 00:32)
はくちゃんさん
こんにちはデス
ご訪問戴きありがとうございます。
また遊びに来てくださいませ。
by わけん (2013-05-05 10:56)
夏炉冬扇さん
こんにちはデス
全国の飯盛山で検索したら、日本には50近くあり、九州北部と近畿に集中しているみたいですよ。
結構あるんですね~
by わけん (2013-05-05 11:04)
kuwachanさん
こんにちはデス
今回はあまり街の中をブラブラしなかったので気付かなかったのですが、
会津駄菓子資料館なる施設もあるので、もしかすると駄菓子店をよく見掛けた
といううろ覚え、、、かなりホントかもしれませんね。
by わけん (2013-05-05 11:13)
amaneさん
こんにちはデス
「定かではない・・・」「・・・と伝わっている」「・・・という説も」
よくこんな説明書きを目にしますよね。
amaneさんが言うとおり、誰が記録したかもわからないし、仮に記録があったと
しても、その信用性は?と言われてしまうと証明するすべもない。
そう伝わっているんだ・・・と思えばそれで良しなのでしょうね。
信じるか信じないかはあなた次第です。
It is up to you whether believe or not.
by わけん (2013-05-05 11:28)
鶴ヶ城イイですね。お城好きなので、2回いきましたが、また行きたいお城の一つデス。天ぷらまんじゅうの記憶もある思い出の土地ですね。
by ノリパ (2013-05-05 17:44)
ノリバさん
こんにちはデス。。。コメントありがとうございます。
天ぷらまんじゅう、、、そう言えば見掛けました!
東京の門前仲町の「あげまん」は知って食べたこともあり、天ぷらまんじゅうの看板
を見て、「あげまん」と同じだろうとパスしてしまいましたわ。
by わけん (2013-05-05 17:52)
何度か行ってますが、暫く振りなので懐かしいです。
by 旅爺さん (2013-05-05 19:58)
日本のお城(天守)は基本その威厳を示す象徴だと思うので、素敵なお城だなって思ってます。
むしろそこに行くまでの通路や堀、石垣、櫓をみてどうやって守りを固めていたか、それを崩そうとしていたかを想像してしまいます。
ゲームや漫画の見過ぎでしょうかねw
当時芝があったかはわかりませんが、白いお城、芝、松、桜、苔がいいなぁ〜って思います!!
by フク (2013-05-05 21:45)
旅爺さん さん
こんばんはデス
少しだけリニューアルし、屋根瓦が赤色という珍しいお城となりました。
by わけん (2013-05-05 22:57)
フクさん
こんばんはデス
私も天守は現存する天守のみにしか興味はありませんが、城壁や堀は当時のままで残っているところは興味いっぱいです。
フクさんが仰るように、どんな思いでこのような造りにしたんだろうとか、城壁の石の大きさや堀の深さによって威嚇の意味もあったのかな・・・なんて考えちゃいます。
芝が張られた中心部には御殿等が建てられていたそうですよ。
by わけん (2013-05-05 23:07)
桜の良い時期に行かれましたね。
お城と桜はやはりいいですね。
セピア色のような赤瓦の色、素敵ですよね。
by のりたま (2013-05-15 18:28)
のりたまさん
こんばんはデス
今年は早いのか遅いのか開花時期がつかめない東北の桜。
会津は散り際ではありましたが、どうにか間に合ってラッキーでした。
でも弘前城の桜は開花が遅れてGW後だったとか・・・
今年の春は本当に寒かったぁ~
良い色の瓦でお城に風格が出たような・・・
by わけん (2013-05-15 22:05)