和歌山と高野山の巻 12 【紀州東照宮】 [和歌山]
【2016年5月13日(金)】 和歌山と高野山の巻 12
15:00 [紀州東照宮] (きしゅう とうしょうぐう)
最初にお詫びを。。。九度山の旅ルポより日付を間違えておりました
和歌山と高野山の巻 2~5 は5月12日(木)、 6~12 は5月13日(金)となりまする m(_ _)m
高野山からはじめてこの旅ルポも12回目、和歌山の旅は今回が最終回です
和歌山最後に訪れたのは和歌山城。。。と言いたい所ですが、お城よりもこちらの方が良いかなと考え、
紀州東照宮に立寄りました
紀州東照宮
関西の日光とも呼ばれ、家康公の死後、紀州徳川家初代頼宣が1621年に創建した
紀州は徳川御三家の1つ。
徳川家の本家は将軍家(宗家)と云い、初代家康公の九男が尾張徳川家、十男は紀州徳川家、十一男は水戸徳川家は徳川御三家として将軍家に次ぐ御家柄。
紀州徳川家は初代頼宣(家康の十男)-二代光貞(3代将軍家光従兄)-三代綱教(光貞の長男)-四代頼職(光貞の二男)-五代頼方(光貞の三男)、、、頼方は後の 吉宗 。
そうです、あの「暴れん坊将軍」として名が知られている徳川家8代将軍!
テレビ「暴れん坊将軍」では名を隠して徳田新之助と変えて庶民と接したいたが、この新之助と云う名は吉宗が幼少の時の名なんです。歴史上、庶民と一緒に過ごす例はあり得ませんけどね(笑)
因みに東照宮は全国に130社あるそうです
和歌山と高野山の巻 11 【紀三井寺】 [和歌山]
【2016年5月12日(木)】 和歌山と高野山の巻 11
14:10 [紀三井寺] (きみいでら)
湯浅より湯浅御坊道路?と阪和自動車道で再び海南へ
阪和自動車道とは大阪府の松原ジャンクションから和歌山県の南紀田辺までを結んでおりますが、途中の有田~御坊間は有料道路となっているんだそうです。
走っていて2車線から4車線になった所が境界なのでしょうか。。。
海南インターより国道42号で10分ほど進むと紀三井寺交差点。
こちらを鋭角に右折するとすぐ参道となります
重要文化財 楼門 1509年建立
寺の手前にコインパーキングがありますが、寺を向って左折した先に紀三井寺の駐車場が現れる。
ここ紀三井寺は200段近い階段を登らなければならないのですが、老夫婦には酷ってことで、ほぼ階段の上まで行ける登山道的な駐車場もあるんです!
駐車料金は700円と高めではありますが、老夫婦も私も楽になれるって事で即料金お支払い(笑)
登山道は車1台が辛うじて通行できる道幅で、九十九折りのようなカーブもあって、参拝を済ませた下り坂はハラハラさせてくれちゃいます
和歌山と高野山の巻 10 【湯浅】 [和歌山]
【2016年5月12日(木)】 和歌山と高野山の巻 10
12:40 [湯浅] (ゆあさ)
古い街並みが好きな私にとって、和歌山で気になっていた町が湯浅
重要伝統的建造物群保存地区に指定された湯浅町は、和歌山市より車で南へ30分ほどの距離
町の中を世界遺産にもなっている熊野古道が通り、信仰も含めた宿場町として発展
そんな湯浅町は「醤油発祥の地」としても名が知られている
電柱が無ければ・・・と思ってしまいますが、今後の保存活動によっては今よりも訪れる観光客が増えると思う町。
湯浅を『和歌山と高野山の巻10回目』の旅ルポは湯浅町をお伝えします
和歌山と高野山の巻 9 【たま駅長・長保寺】 [和歌山]
【2016年5月12日(木)】 和歌山と高野山の巻 9
11:00 [貴志駅] (きしえき)
根来寺より南にある長保寺へ向う途中、貴志駅の看板を見付け、ここは確か・・・
そうです! たま駅長 の貴志駅
和歌山電鐡の貴志駅は猫の駅長が働いている珍しい駅。
まぁ、働いていると云うよりゴロゴロしていると云った方が正解かもしれませんね(笑)
和歌山電鐡は元々南海電鉄の貴志川線だったのですが、赤字ローカル線であったため2006年に岡山を本社に置く両備グループへ譲渡され和歌山電鐡とされた。
終点の貴志駅の売店で飼われていた?半分野良猫でもあった「たま」を見た両備グループ会長に閃きが・・・
その翌年に全国でも珍しい猫の「たま駅長」が誕生し、この駅長の噂が噂を呼び、たま駅長に会いたくて終点の貴志駅まで乗る客が増え、関連グッズが飛ぶように売れるという現象が生まれたそうな
和歌山と高野山の巻 8 【根来寺】 [和歌山]
【2016年5月12日(木)】 和歌山と高野山の巻 8
10:00 [根来寺] (ねごろじ)
粉河寺より西へ車で15分の根来寺へ
根来と云えば戦国時代で僧による軍事集団、根来衆として名が知られ、1543年に種子島へ火縄銃(鉄砲)が伝来し、その時の1挺が根来へ入り、根来衆はその火縄銃を生産して鉄砲を持つ軍事集団へ
当時の火縄銃は滋賀県(当時は近江国)の国友、日野、大阪府(当時は和泉国)の堺、そして和歌山県(当時は紀伊国)の根来で鉄砲鍛冶によって生産されていたが、根来は豊臣秀吉によって攻められ、現在では鉄砲鍛冶としての歴史は途絶えてしまっている
根来寺は1132年に高野山で、のちに興教大師と称される覚鑁(かくばん)上人によって、と伝法法院を創建したのが始まり。
816年に弘法大師さまによって高野山を真言密教の聖地としたが、300年近くも経つと当初の教えも衰退しはじめ、その衰退に危機感を感じた覚鑁上人は真言密教を正しく伝えるために伝法会を立ち上げるが、他の僧と確執も生じ根来へ移り、この根来寺が創建された
大門 1852年再建
大門は現在の根来寺まで歩いて10分近くも歩かなければならないのですが、何故こんな離れた所にあるかと云うと、当時の寺がとてつもなく敷地が広く、僧兵10000人以上も存在したいたことから、ここは大きな寺町として栄えたのだと理解できます