瑞泉寺 [神奈川]
【4月6日 金曜日】 午後2時50分
鎌倉宮、永福寺跡から瑞泉寺へ
寺の入口と思われた寺名が刻まれた石より200m先に寺の入口がありまする
拝観料200円を支払って瑞泉寺内へ
1327年に建立された臨済宗円覚寺派の錦屏山瑞泉寺
寺は紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる静かな山間の地にたたずむ古刹
苔が生えた古い石段と新しい階段があって、古い方は雨が降ったことにより滑りそうだったので、写真だけ写して境内へと向かう
本堂は二層屋根、この裏側に庭園があります
瑞泉寺は前身である瑞泉院を開いた夢窓疎石(むそうそせき)が開祖、夢窓疎石は先日書いた甲斐の恵林寺や京都の天龍寺、西芳寺、等持院も開いた有名な方だそうで、庭造りも瑞泉寺の他に京都西芳寺(苔寺)を手掛けたとの事。。。
岩盤を削って造られた庭園で、昭和45年まで埋もれていたそうです
現在は国の名勝に指定されているそうです
鎌倉宮 [神奈川]
【4月6日 金曜日】 午後2時00分
鶴岡八幡宮で雨宿りをしていたのですが、雨は一向に止む気配がなく時間だけを費やしてしまうので、次の鎌倉宮(鶴岡八幡宮から東に向かう)へ
バスを利用する距離でもないので、歩いて行くことに
学校や住宅街を抜けて「源頼朝墓」に到着(鶴岡八幡宮より徒歩約10分)
源頼朝は1198年に北条政子の妹の供養の為に掛けた相模川(神奈川の中央を南北に流れる川)の橋供養帰りに落馬し、その後体調を崩して亡くなったと伝えられています。落馬したのは帰路で藤沢市辻堂付近や、相模川の橋からとも伝えられ、相模川を馬入(ばにゅう)川と呼ぶのは源頼朝が亡くなった日が相模川の橋供養からと伝えられています。
しかし当時の相模川は現在の川より2キロ近く東側を流れていて、鎌倉時代に掛けられた橋桁の一部が関東大震災で地上に顔を出し、現在では国の史跡に指定され当時の橋梁は地中(池)内で保存し、レプリカを地上に出しております(茅ヶ崎市小出川付近)
源頼朝墓は少し高台にあって、かなり寂しい場所にありました
この場よりまた歩み始め、鎌倉宮を前にして喫茶店(茜草庵)を見付けたので温かい珈琲で一服
写真を撮り忘れましたが老夫婦(と思われる)が経営され、奥には苔が生える小さな庭があり、とっても落ち着く喫茶店で、店内の客は私ひとりだけでしたので鎌倉のお話を聞かせていただきました
喫茶店より1分で鎌倉宮(源頼朝墓より徒歩10分程)
やっと雨が止み陽が覗かせ出したころに鎌倉宮につきました
この鎌倉宮は後醍醐天皇と皇子の大塔宮護良親王と共に、平清盛以来から続いた武家中心の政治から天皇中心の政治に変えるべく当時の幕府を倒したにも関わらず、足利尊氏との対立によって殺されてしまいました。明治時代に入って武士から天皇へ政権を変えるために建ち上がったことをたたえ、明治天皇が護良親王を祀る神社として1869年(明治2年)に造られたそうです
本堂の右側には村上社がある
村上社とは後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王に仕えた村上義光が、奈良の吉野落城時に護良親王の鎧を着て敵に対し「我は大塔宮護良親王ぞ 汝ら腹を切るときの見本とせよ」と叫び、護良親王の身代わりとなって切腹し、護良親王はこのすきに南へ逃れた話が義士と称えられました
身代わりとなって切腹した村上義光にあやかって木像を撫でて病気や厄を身代わってもらうそうな、、、うーん。。。死後も身代わりになるとは当の本人も驚いているかもしれませんね
鎌倉宮から北東の瑞泉寺方面へ進む
すると大きな広場が現れ、ここは永福寺があったところだそうな
永福寺とは源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、平泉で見た二階堂を参考に鎌倉に同様な寺社を建てたのがこの永福寺だそうです。他にも合わせて3つの寺院(鶴岡八幡宮、もう1つはこの永福寺と同じく廃寺となった長勝寿院だそうです)を頼朝が造ったそうです
現在、この永福寺跡は史跡公園として工事がはじめられておりました
鶴岡八幡宮 その2 [神奈川]
【4月6日 金曜日】 午後1時20分
表参道を本宮に向け歩むが、空は完全に雨雲でいつ雨が落ちてきてもおかしくない状態なので歩みを早めて舞殿前へ
それでも雲の隙間から陽の明りもあって雨は大丈夫なのかな・・・先程から神社よりも空ばかりが気になって仕方がありませんわ
こちらは2010年の3月10日に強風によって倒れてしまった大銀杏
樹齢1000年近くの古木で、本殿の写真を下から撮ると必ずフレームの中に入っていたのだけれど、いまでは少しさびしいような・・・
本殿の「八幡宮」と書いてある「八」の字は「鳩」をイメージした文字
ここで雨がザー
空は少し明るいのですが雨が止む気配も無いので先へと移動、地元で買った折畳み笠が役に立ちまする
こちらは白旗神社
雨のせいか誰も歩いていない、、、
鶴岡八幡宮の朱塗りと比べ、黒い神社は落ち着いた趣があるまするなぁ