【岩手】 中尊寺 その弐 [東北]
【2012年7月14日】
もう1週間も前になりますが、先週の3連休を利用して東北へお出掛け記事を書かさせていただいておりますが、本日は昨日に引き続き、中尊寺その弐となりまする
讃衡蔵で金色堂拝観券800円を買い求めて、さぁ本日のメインイベントでもあります「光堂」へ
1962年にコンクリート製の覆堂となり、金色堂はすっぽりとこの覆堂の中におさめられている。また何度かの修復によって現代でも黄金の輝きを保っておりやす。入口は一旦奥まで進んでガラス張りの室内に金色堂があるのですが、行く度に「案外小さいんだなぁ」が感想ですかね
堂内は撮影禁止なのでHPからとパンフレットからの転載、それと堂内でいただいた御朱印です
ガラス越しであるのと、3連休とあって拝観客が多くゆっくりと観ることが出来ませんでしたが、金色堂の中には御本尊の阿弥陀如来をはじめ、十数体仏像が並び、須弥壇の中には奥州藤原氏の初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と四代泰衡の頸が納められています。また装飾では金箔や夜光貝を使用した螺鈿(らでん)が見事ですわ
約5分程度ですが、久々に金色堂を目にし、覆堂をあとにする
因みに中尊寺での御朱印で、各お堂でいただけるのですが、中には書かれている御朱印をいただくお堂もありますので、御朱印帳に書いていただけるか確認が必要です。私はこの金色堂だけいただいて、あとはパスさせていただきましたわ
こちらは経蔵で、経蔵手前には芭蕉の句碑がありまする
五月雨の 降りのこしてや 光堂
周囲のお堂が雨風で朽ちている中で、光堂(金色堂)だけが輝きを保っている。
絶え間なく降る五月雨も、輝かしい光堂だけには降りそそがない。。。てな感じでしょうかねぇ
ルビ無くて たぶんアレだと 勘で読む 。。。わけん
俳句じゃなく川柳ですな、、、情けない(笑)
松尾芭蕉さま。。。すんませんm(_ _)m
こちらは1962年に建てられたコンクリート製の覆堂が出来るまで、金色堂を覆っていた旧覆堂
この旧覆堂があったからこそ、現代も金色堂が残されているんですねぇ、、、旧覆堂の中に入って何故か感動してしまいましたわ
有料拝観はこちらまでで
こちらは大長寿院があった場所
鎌倉で永福寺跡という寺院の跡地が残っていますが、源頼朝がここにあった二階大堂に素晴らしさ(伝えによると腰を抜かすほど驚いたそうです)を感じ、鎌倉に模して建てたというのだから、相当な素晴らしいお堂があったのでしょうね
なんでも15mにも及ぶ伽藍で、9mの阿弥陀如来が安置されていたとか・・・今ではそんな建物は残っておらず、伝えられた歴史だけしかないんですわ
庭も相当素晴らしかったのでは?、、、大長寿院があった山門を裏から撮ったもので、右手奥は旧覆堂です
また現在のお堂に向かって右手には竹林が広がっていて、その竹林脇から降りれる道があるのですが、木の根があらわになってなんとも言えない雰囲気がありまする
竹林から降りて来ると白山神社の入口
ここで面白い話を聞きました
そもそも「平泉」という地名はどのように名付けられたのか?
調べてみると3つの諸説があるらしく、1つはこの地の近くで湧き出た「平泉野」の泉から平泉となったという説。2つ目は秀衡の館から湧きだした「酒の泉」から名付けられた説。最後は越前平泉寺白山神社(先月のお出掛けで訪れた場所)から名付けられた説。
諸説はいろいろありますが、奥州藤原氏が繁栄していた時代は平安時代の末期で天下は平氏から源氏へと移ろうとしていた時代、奥州藤原氏は京とも繋がっていたが、物資等を運ぶ際に源氏が治める関東(鎌倉)を通らず日本海側のルートを利用していたそうですから、越前の白山神社とも繋がりがあったと思われます
奥州藤原氏以前においても日本海側ルートで京へ行くのは、太平洋側を通るよりも近道でありますから、奥州藤原氏以前から白山神社と繋がっていた説も考えられますね
白山神社が中尊寺内にあることから、越前の平泉寺からここを「平泉」と名付けられた・・・かもしれないんですね
中尊寺の白山神社内には立派な能楽殿があって、萱葺き屋根の能楽殿。。。いいっすねぇ
白山神社を後にして最後に拝したのはこちらの弁財天堂
池の浮島に建てられていて、なんともいえませぬ
平泉中尊寺はちょっと蒸し暑い日でありましたが、空が明るくなって本当に良かったですわ
芭蕉さま、、、ありがとうデス
芭蕉さま・・・「何か呼んだ?」てなお顔をしているような
中尊寺は結局1時間ちょっと滞在し、それなりに観て廻りましたが時間があればもう少しゆっくりしたい所ですね
駐車場は中尊寺の麓に第1、第2、第3駐車場があり、駐車料金は400円です。坂の上駐車場(30台程度駐車可能)は500円で金色堂にかなり近い場所でありまする